全日本弓道具協会の 創設と発展
戦前
戦前には 弓道具協会の前身である 日本弓具工業組合 日本弓具商業組合と言う組織があった(看板 林忠兵衛弓具店所蔵、名簿 山内弓具店所蔵)。昭和14年には 戦争の影響で物価統制令が施行され 組合に入っていなければ さまざまな物資が供給されず 営業すら出来なかった。その為か山内氏所蔵の会員名簿も会員数は多い。物価統制令で 弓具も等級を付けられ その価格で販売することを強いられた。評価は組合員幹部である査定委員が行った。最上級品として 石津巌雄 氏、柴田勘十郎 氏の弓は名匠の作として例外とされ さらに高価な価格がつけられていた。当時、木村武雄 氏が 組合長として活躍されていた。
終戦
終戦後 昭和25年に全日本弓道具協会として復活する。その当時の会員名簿は 紙1枚に手書きされた程度で 会員数も少なかった。尚、現在 当初の名簿は不明。昭和35年 取引高税の折り弓道具協会は 茨城県の代議士 佐藤洋之助氏に お世話になった。その後の ごたごたから一度 全日本弓道具協会を発展的に解散し 名称を全日本弓道具組合連合会と変更し、会長も小沼英治氏から木村武雄氏が引き継いだ。昭和42年9月 木村武雄 会長、曽根正康 副会長、体制から 小沼英治会長、体制に替わり 会員名簿も 同時期2冊(名簿 朝矢弓具店所蔵)の発行となった。小沼会長の昭和47年 現在の名称 全日本弓道具協会に変更した。
箆
学校弓道の再開で 昭和30年代後半より矢が品不足気味となる。矢の粗製濫造の懸念により 静岡にて協会の会議が開催されるほどであった。昭和38年には アサヒ弓具工業によりイーストン社製金属箆の輸入が行われた。
昭和39年に行われる東京オリンピックで、アーチェリーが正式種目として実施されるというIOC決定がありました。全日本弓道連盟はFITA正式加盟の年に「国際部」を設け、東京オリンピックでの和弓の勝利を目指しアーチェリーの調査研究を行っていました。全日本弓道連盟から委託を受けた住友軽金属(株)が高力アルミ(一七S、三五S)で試作しましたが 実用には 至らなかった。結局 エントリー国数が少なく東京での実施は見送られ 公開競技としての弓道が行われた。昭和40年頃から耐蝕硬質アルミ(五六S、六二S)で一応実用化の端緒を得ました。その頃東京周辺の大学では 金属矢が使用されつつありましたが 地方や一般の関心は薄く 竹矢との違和感を少なくする為に 焦茶色にアルマイト加工しても 普及には多少の時を要しました。然しトヨタ自動車弓道部は 金属矢を初期段階より積極的に取り入れ 全国的弓道大会で好成績を上げられた事が 全国に金属矢が普及する原動力となりました。そして、一両年後には 住友軽金属(株)の協力のもとに (七五S・T六H)の超高質アルミシャフトによる20kg以上の弓にも十分耐える 廉価な国産金属矢が 完成しました。昭和40年代前半頃 国産シャフトは比較的安価の為 竹箆との違和感もありましたが 普及の輪は拡がりました。その頃 イーストンシャフトは 竹箆に比較して高価で 遠的矢としては 使用され初めましたが、近的では竹箆の使用が 圧倒的に多かった。その後、国産は更にスパインの優れた(七八S)が開発されましたが 相次ぐ産業電力の値上げで 昭和50年には価格が 輸入シャフトに可成り近づきましたので以後は、円高の効果による価格の引き下げもあり より高性能の米国イーストン社製シャフトの 金属矢比率が徐々に増加しました。この頃から近的矢でも ジュラルミン矢が竹矢よりも 多く使用されるようになりました。
矢羽
昭和28年から昭和37年の協会の業務として 羽を組合員へ分配する作業があった。昭和37年頃の会長であった 木村氏から愛知の支部長の林氏に宛てた 協会の羽の配布に関する手紙が 林忠兵衛弓具店に資料として残されています。昭和28年頃中国から 繊維、羊毛、毛皮、羽、等を 畜産品として 愛知県一宮市の繊維会社が輸入していた。その中の 羽に関して 弓道具協会に一括して売却され それを組合員に配分する仕事を協会が引き受けていた。 全国では 各地区の役員、愛岐静岡地区では 林忠兵衛氏、甲賀氏、平井氏、が担当役員として 奉仕されていた。昭和30年には協会での扱いは終了した。その後仕入れは 個々に
求められる様になる。その中で 千葉県の鳥山氏は 協会に劣らない公正な取り扱いをされた。昭和28年から昭和32年頃までは 輸入される羽は海岸及び水辺に生息する 粕尾や白鷹が主で 犬鷲はほとんど入荷しなかった。尚、白鷹は弓具店であまり好まれなかった事もあり 主な販売先が人形店に流れた。昭和32年頃から中国での開発が奥地に進み山岳の鷲である 犬鷲が入荷しだす。逆に海辺の鷲鷹である 粕尾や白鷹は入荷が少なくなった。後昭和34年頃から徐々に 遠藤羽毛店が輸入商社から すべての羽を買い占めるようになり 羽の価格も高騰した。その後 遠藤羽毛店は価格を下げて 組合連合会へ販売を委託する。その後 遠藤羽毛店は廃業し、昭和40年以降は弓具店が各自で輸入するようになる。昭和57年までは 広州交易会で 犬鷲を購入していて 最盛期には 消費量をはるかに上回る 5万羽以上が輸入された。しかし徐々に 輸入量が減り、昭和55年には日本がワシントン条約締約国となり 粕尾の輸入は出来なくなった。この年4月契約分は締約前であったのにもかかわらず 輸入が11月に延びた為 粕尾は税関にて焼却処分された。この為 当時 大きく輸入業務をされていた 林氏や相良氏は大きな損害を被った。昭和58年には 天津交易会に 場所が変更となる。昭和58年には 新疆省
(しんきょうしょう)と だんだん奥地に行き 価格も通常の取引価格の 倍の価格となり仕入れ不能となった。昭和60年には 販売が無くなってしまった。昭和60年頃に商社の在庫5千羽が 販売され弓具店も少しは潤ったが これが最後の大量販売となった。
かけ
かけ の素材としては 戦前も地鹿(じしか;国内産の鹿)はほとんど使われず。中国からの輸入の鹿が使われていた。中国産に比較して肌がざらざらし 薄目で腰がなく かけ には向いていないのが 原因の様です。印伝製品の様に 漆を付けたり、ニベを製造するには 逆に国内産の鹿の方が良いそうです。終戦直後 中国から輸入できなくなり 一時期、兎や猿の革が使われたそうですが 良い物ではなかった。鹿革は液体通す為 航空燃料を濾過するのに使用された。その為在日米軍の軍需物資として 鹿革が輸入され、その余剰品に依り鹿革での製作がもどった。経済の回復と共に中国、東南アジア、北米、南米、更に南半球からも入荷する様になった。
協会に尽力された方
小沼英治
小沼英治 初代会長;範士九段 明治43年2月1日誕生 昭和26年学校弓道実施許可と供に大学弓道部を創設し指導;昭和38年渡米、外国への弓道普及に尽力する。
小沼英治 初代会長(アサヒ弓具工業梶jは 全日本弓道具協会の創設、発展にとても貢献された。英語に堪能で 終戦後禁止されていた弓道をスポーツとして認められるよう GHQと交渉した。また政界との人脈もあり 取引高税の処理や高等学校における弓道の正科採択、日本武道館(青写真 アサヒ弓具工業所蔵)の建設にも 貢献された。
三代 林忠兵衛 本名 林 忠茂
昭和3年1月23日生まれ;昭和27年より32年まで 愛知県弓道連盟岡崎支部長;昭和28年より33年まで 全日本弓道具協会東海地区役員;昭和34年より47年まで 全日本弓道具組合連合会理事と愛知地区会長;昭和45年より50年まで 愛知県弓道連盟理事と岡崎弓道会会長;昭和47年より平成2年まで 全日本弓道具協会理事と愛岐地区会長;昭和61年より平成9年まで 全日本弓道具協会監査;平成10年より平成18年まで 全日本弓道具協会副会長